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[ブログ] 小椋ってどんな人なの?(勘違い編)

自己紹介(勘違い編)

功績が認められたのか、人不足だったのか分かりませんが、1993年(入社8年)にして自硬性造型班のリーダーになり、更なる経験を積み重ね入社当時憧れていた職人にどんどん近づいていました。(悪い職人の方へ)

入社10年を超えた頃はすでに周りからも一目置かれる存在だったと思います。(良くも悪くも)

ちょうどその頃は特殊鋼への移行がほぼ完了し、鋳造方案もそれなりに身に付いて(と、思っていただけ)それまで鋳鉄の経験を積んできた職人さんへの配慮もせず、方案を決めているだけにもかかわらず自分が全て動かしているという気になり、本当に最低最悪の勘違い野郎(本心です)で、もうめちゃくちゃでした。

調子にのっていた私は生産を上げるために、資材置場になっていた第3工場を造型で使わせてほしい、更に10tミキサーと天井クレーンを設置してくれれば生産量を1.5~2倍にすると約束するので「俺に投資しろ」という勢いで社長に直談判した結果、自硬性大物工場の誕生となりました。

社長と約束したこともあり、とにかく生産を上げることに拘りました。

当時は残業が当たり前の時代でしたが、通常19時くらいまでのところ平気で22時くらいまで現場を動かし、チームメンバーに配慮せず独裁状態が続いていました(何年も後に知りましたが誰も意見出来ないオーラを纏っていたようです・・・・振り返ると本当酷いですね)

無茶を続けたこともあり、割とすぐに2倍の生産量を実現しましたが、その一方で不良品も比例して多く発生させてしまいました。理由としては、その頃は受注量が多く、不良対策よりも生産量を増やすことに重点を置いていたと思います。(不良率=不良重量/生産重量で算出していたので、生産量を増やして分母を上げることで不良率を下げる考え方でした)

何とか結果を出し続け、このまま現場の大将かと思っていましたが、2001年になんと事務所配属の指示が出ました。
「えっ、俺を現場から外すの?」と傲慢な私は思いましたが、同時に「あれ?偉くなっちゃうの?」と更に勘違いが加速します。
現場の人間から見ると事務所は高根の花、出世コースだと思っていました。
しかし、与えられた役割は管理職でもなく「不良対策特命員」。膨れた不良を何とかせよ、ということでした。
時代はいざなみ景気に突入し新規取引先の急拡大に伴い、それまで経験のない製品を多く受注しており、更に生型造型からVRH造型に造型プロセス変更による、作業方法の再構築が重なりました。
それでも自分は出来ると思っていましたが、結果は散々。更に不良品の山を造ることになり上司からは毎日のように叱責されていました。

今思うと理由は明らかです。不良品が発生しても、ろくに原因究明もせず感覚だけで対策していたのです。
その他色々な事が重なり「自信」崩壊が始まります。それまでの自分を全否定する程追い込まれました。

また、不良対策と同時に木型方案に絡みますが、ここでも勘違いに気づきます。

これまで私がやってきた方案は押湯方案の一部、堰方案の一部、鋳込み温度の決定でした。もちろん大切なスキルではありますが、木型方案は全く別物でした。
要約すると事務所含め、廻りの仲間のサポートや協力があって初めて製品が出来ていることを改めて知り「勘違い野郎」がこの後変わっていきます。(私の鋳物屋人生の分岐点になりました)

やはり、鋳物は甘くはありませんでした。

(次回、「迷走編」へ続く)

札幌高級鋳物株式会社
取締役 製造部長

小椋博樹

追記:写真について
香港へ社員旅行の写真(1989年)

33年前ということもあり今ではほんの数名しか残っていませんが(笑)

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